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山梨の気質と人情

山梨に赴任していろんな会社の人たちと話をするとき「山梨には人情がない。」という話が良く出る。日本中を転勤している、転勤族の言葉でありあながち間違いではないのかもしてない。またびっくりすることにはあまりこのようなことを語らない転勤族の奥様方が県民気質についてネガティブな評価を口にすることには驚かされる。ということは、ビジネスの男の世界だけでなく女達の世界でもそのように見られているのである。

「車で右折するときにほとんど譲ってくれない。他人のことをあまり考えず、譲り合わない。ごみ収集等のルールを守らない。公共の場所を汚したりごみを捨てたりする。」等などなかなか大変な話ばかりである。

私は1999年9月の末にある意味で「人情という枕詞を持つ会津」から赴任してきた。初めての夜「武田信玄」の本と内藤朋芳著の「山梨の県民性(改訂版)」を買い、後者は一晩で読み終えた。そのなかにはいくつもの報告があるが概して以下のようにある。

長所として

負けず嫌いで仕事に熱心。非常に意志が強い。商売が上手い。率直で一本気。忍耐力があり覇気がある。義侠心に富んでいる。愛郷心が強い。質素倹約の風が強い。独立心が強い。実行力がある。素朴で義理堅い。

短所として

心が狭く排他的である。打算的で悪賢い。自分の利益の為には他人を省みない。他人の幸福をねたみうらやむ。協力心、団結心にかける理屈が多く感情的である。封建的である。虚栄心が強い。同情心が少ない。利己的、個人主義的である。模倣性が強く流行を追う風がある。信仰心に乏しい。広い意味での公徳心にかける。言語動作が粗野で愛嬌なく社交が下手である。

なかなか手厳しい。極端に相反する面がある。これは民間の調査ではない。甲府市教育研究調査会が昭和32年に「地域社会の実態」として公表したものである。これに限らず、昭和13年山梨県師範学校、山梨県女子師範学校共編「総合郷土研究」、昭和17年の山梨県が出した「山梨縣政50年誌」にも同じような記載がある。

商売人の堅気に関する調査の記述はもっと辛らつな、あまりにストレートすぎる表現があり、全体のバランスを失する為、ここでは割愛する。

ただこれらは人の表の顔と裏の顔、光と影のようなもので、地域を同じくする集団のいい面と悪い面として現れているのであろう。そしてその原因として偏狭な地域にあるという説や徳川時代の悪政にあるという説など紹介されている。

特にビジネスの面では甲州商人として有名な山梨県人はポジティブな方面では長所が現れ、ネガティブな場面では特にハードな商いの場面では県外の人から見たときに短所といわれる部分が際立つというのはあるのかもしれない。転勤族が良く口にするという「山梨の商売には人情がない。」というのも同じなのではなかろうか。

確かに前述の長所並びに短所に「人情」の言葉はない。ただ私は山梨に人情がないとは思わないし、私の周りには人情家であふれている。特に私の大学の恩師で仲人でもある山梨市出身の先生は「仕事に熱心で、非常に意志が強く、忍耐力があり、愛郷心が強く、質素倹約の風が強く、素朴で義理堅い」という山梨県人の長所を全て備えた方で、人情家で私の人生の師であり山梨県人はかくのような方であると思っていた。

それは一歩自分から無心にこの地に馴染もうとしているかどうかの差によると思う。袖触れ合うも何かの縁、人情はそこにあるものではなく自分から一歩相手に近寄ったときにその人の前に現れるのでなのではなかろうか。人情は自分自身をその地の人たちが受け入れてくれたときに人情を実感できると思っている。これは私自身のアイデンティティーである「薩摩の出身」であるいうことを伏せて会津に赴き、3年の間に会津の人情を実感してきた者の感想である。確かにビジネスの場ではそのような触れあいは少ないのかもしれない。しかしそれは仕事面だけしか自分の人格が相手に伝わっていないからなのではなかろうか。

約30年のサラリーマン人生の中で3年から4年の赴任地での生活を単に仕事の付き合いだけにしてしまうのは味気がない。人生の1割という期間をすごすと考えれば転勤の赴任地での生活は充実したものにする必要があると思う。

人情に関してひとつ話を紹介しよう。

私は大学2年生の夏休みに大阪の堺市に住む叔父と叔母の家を訪ね、叔父の家業のサッシ屋(当時、叔父が京都市の逓信病院の窓枠サッシを請け負っていた。ここで私は電気溶接を覚えた。)でアルバイトをした後、1週間ほど奈良と京都の旅に出た。当時流行っていた本宮ひろしのコミック「俺の空」を気取ってである。長い髪に、ラッパズボンのジーンズ、ミラーのサングラスという当時としては一般的な若者の格好である。

奈良公園の側の路地を歩いていたとき軽乗用車を脱輪させ難渋しているかなり高齢のお坊さんを助けた。それが縁でそのお寺を訪ねたら泊めて頂けることになった。その和尚さんは私のことをかなり気に入っていただき3日間いろんな話をしてくれた。というより和尚さんが私に話して聞かすことが3日分もあったというほうが正しいかもしれない。「人の格」、「徳」、「自我」、「人情」、「本物」に関する話があった。四国のお遍路さんの話のくだりで「人情は純粋な気持ちで相手に一歩近寄る努力をしたときに生まれる。」という言葉があった。その他「相手を悪く言うことは慎みなさい。貴方もそれだけの人間になってしまう。」ともいわれた。

このとき私はやせ我慢で本堂の隅で寝かせてもらった。とても怖くて1日だけになってしまったが、本堂の本尊様の存在に圧倒された為である(単にひっそりした本堂が怖かっただけなのであろうが)。翌日、その話をすると、それは鎌倉時代のもので由緒あるものだという。その夜、和尚さんから「偽物をいくら見てもだめだ。本物をちゃんと見なければだめだ。本物でしか本物を見る目は養えない。」と教えられた。

当時の私は法学部の学生で我妻栄博士の「民法講義」、團藤重光博士の「刑法要綱」を傍らに抱え、法律的な三段論法と論理的整合性をこよなく愛していた。人を愛することにも合理的な理由が要り、石川達三の「青春の蹉跌」を愛読していた。そのような環境にあった私にとってこの3日間は別次元の世界の話であった。そして、それから25年経った今でもその3日を鮮明に思い出すことができる。いまだにあのときの和尚の言葉は昨日の事のように脳裏に浮かんでくる。人生の中でも貴重な3日間であった。

ミレーの絵を見るために山梨県立美術館にひたすら通っているというのは和尚の教えによるものである。さらにこの山梨でも教えに従って「無心に自分から相手に近寄る努力」をしている。そしてここを離任する時には私はきっと「仕事は大変だったけれど山梨の人情に触れて楽しかった。」というだろう。

あとがき

最後の章を書き終えた翌日、思っても見なかったことが起こった。2001年3月9日(金曜日)、私に江戸城詰の内示があった。その夜、埼玉の自宅に帰るあずさの車窓からみえる弥生の望月がなぜか悲しげに輝いていた。

1週間前、昼食でお世話になっている甲府城のそばの喫茶店「ヴァリアンテ」(ここの昼食は魚と、肉の二種類であるが1年半通って同じメニューが出たことがない。)で知り合いになった皆様と飲み会を開き、山梨の隠れた名所の情報、薀蓄など等を交換し、春になったら鳳凰三山に登る計画を立てて盛り上がっていた。仕事を離れた忘年会や飲み会は転勤族としては最高にあり難いお付き合いをさせていただいた。さらに最後の日に送別会までしていただいた。

書きたいことはまだまだあるがこの「甲府勤番風流日誌」を山梨で出会い、話を聞かせていただいた全ての人々に心から感謝するとともに山梨の皆さんにさ捧げて終えることにする。 (オリコ11代甲府勤番)


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